History

OZ DAYS LIVE

 OZの閉店が決まると、店長を務めていた手塚実は、そこで演奏していたバンドの記録を形にして残そうと思い立った。

手塚実:ちょうどその頃、『Fillmore: The Last Days』という映画が公開されてね。ビル・グラハムがフィルモア・ウエストを閉める時、最後に行なわれたライヴを映画にしたわけ。それにインスピレーションを受けて、よし俺もやろうと考えたんだ。映画はちょっと無理だけれど、レコードを作ろうってね。そして、それまでに出演したバンド5組の演奏を収録して、『OZ DAYS LIVE』という2枚組のアルバムにした。
ここに入っているラリーズの音は、お客さんを入れない状態で録音したんだ。ドラムが正田君、サイド・ギターは中村君、あと、ベースは長田君だったんだけど、この日は久保田君がやった。
お金もないし、機材もちゃちくて、安いソニーのマイクと、ティアックか何かのテレコ。6チャンネルか8チャンネルくらいの、ヤマハのボックス型のアンプに直で差し込んで、テープに録ったような感じ。その録音を担当したのが、どろんこ、高田清博君だった。彼が設定から何から色々やってくれたんだ。

どろんこ:武蔵野公会堂の時も、『OZ DAYS LIVE』のエンジニアリングも、自分1人じゃ無理だから、高校の友達に頼んで、手伝いに来てもらった。武蔵野公会堂でヴォーカルに使った細い2本のマイクは、その友達が持ってきたコンデンサマイクで、すごくいい音がしたよ。彼は、後に日本で有数のPAエンジニアになって、武道館とか東京ドームでも仕事している。自分でPA会社を経営していて、今では会長だと思うけど、その道に進んだのは、たぶん僕と一緒にラリーズのエンジニアをやったことがきっかけだったんじゃないかな。
最近のマイクは、意外と安いでしょう。みんな宅録とかやるんでも、いいマイク買って使ってるじゃない。でも当時はマイクって物凄く高くて、今ならどこでも普通に使ってるシュアーの58っていうのが、当時は72,000円。とてもじゃないけど買えない。じゃあ、どうやって録音したかというと、ちょうどその頃ソニーが、ECMマイクっていうコンデンサマイクの一種で、ボディに電池1本入れて動かすタイプのものを初めて売り出してね。その廉価版が確か1本2,500円で、そいつを3本くらい買ってきた。あと、OZのあった場所は、以前は歌声喫茶だったんで、その残骸が店の中に残されていて。あちこちに壊れたマイクが転がってたから、それを僕が修理したんだ。バスドラの音はそれで録ったと思う。
(実際に『OZ DAYS LIVE』を聴きながら)このステレオ感は凄いよね。楽器1個にマイクひとつずつ付けて、それをミックスしてるんだけど、モニターなしで、すべて勘でやっている。よくできたもんだなあと思いますよ。


 後年、日仏会館で「裸のラリーズ」のライブを企画・開催することになる松本成夫は、当時のOZでラリーズの演奏を目撃し、その魅力に取り憑かれた一人だった。

松本成夫(グラフィックデザイナー):1970年か71年に、美術の予備校で、正田俊一郎君と知り合った。彼は油絵科、私はデザイン科だった。すでに正田君はラリーズでドラムを担当していて、ライヴの日とか練習の日には、普段とは違う、なんだか近づき難いような緊張感を漂わせていた。そんな縁でラリーズのライブに行くようになって。
OZで見た時は、目の前ほんの数メートルの至近距離で、水谷さんが歌ってる。この頃はかなりアクションも激しくて、体から絞り出すようにシャウトしていた。歌詞もしっかり聞きとれた。ギターはファズくらいしか使ってなかったんじゃないかと思うけど、それで十分だった。水谷さんのギターは、極限までサウンドを引っ張り上げるんです。で、いきなりズドーンと落としてくる。それにもう、すっかりやられてしまった。私はまだ学生で、同じクラスの女の子と見に行ったんだけど、彼女の方はハートを打ち抜かれたような気分になったと話してた。

Photo by Aquilha Mochiduki


 『OZ DAYS LIVE』は8月にリリースされ、閉店前の数日間には「OZ Last Days」と銘打ったシリーズ・ライブも行なわれた。そして、73年9月をもって、OZの短くも濃密な歴史は幕を閉じる。以降、OZの主要メンバーは福生へと拠点を移すことになった。